洗濯物を畳んでいた手が、止まった。
知らない匂いがした——私たちの家では、使ったことのない香りが。
それは、何気ない月曜日の午後だった。
乾燥機から取り出した洗濯物を 畳もうとして、 夫のワイシャツを手に取った瞬間——
鼻の奥に、ふわりと入ってきた。
甘く、華やかで、 どこか媚びるような香り。
あれ。
私たちが使っている柔軟剤は、 無香料だ。 肌が弱い夫のために、 ずっとそうしてきた。
なのに——このシャツは、 明らかに違う匂いをまとっていた。
手の中のワイシャツを、 私はしばらく見つめた。
白い布地は、 何も答えてくれなかった。
もう一度、鼻を近づけた。
間違いない。 甘い、フローラル系の柔軟剤の香り。 市販品の中でも、 特に香りが強いタイプのもの。
どこでついたんだろう。
最初はそう思おうとした。 満員電車で誰かに触れたとか、 居酒屋の座敷で隣になったとか。
でも——下着にまで。
次に手に取ったボクサーパンツにも、 同じ匂いがした。
体の奥のほうで、 何かが音を立てたような気がした。
その週、私はさりげなく聞いた。
「最近、洗濯どうしてるの? なんか服、いい匂いするけど」
夫は一瞬、間を置いた。
「え、そう? 気のせいじゃない」
笑って、スマホに目を落とした。
その「間」が、 ずっと頭に残った。
それから私は、 洗濯物を畳むたびに確認するようになった。
自分でも嫌だと思いながら。 こんなことをしている自分が みじめだと思いながら。
それでも、手が動いてしまう。
ある日、また同じ匂いがした。
今度は首元の辺りに、 特に強く。
私はそのシャツをそっとビニール袋に入れた。 証拠を残すように。 でも——何のために残すのか、 自分でもわからなかった。
問い詰める勇気もなかった。 否定されたとき、 それ以上どうすることもできないから。
夕飯を作りながら、 私は何度も泣きそうになった。
換気扇の音に隠れるように、 鼻の奥がつんとした。
私が知らない場所で、 この人は誰かの匂いをまとって帰ってくる。
その現実が、 じわじわと輪郭を持ち始めていた。
ある夜、子どもを寝かしつけた後、 私はひとりでお風呂に入った。
湯船の中で、天井を見ながら考えた。
私はこれから、どうしたいんだろう。
見て見ぬふりをして、 このまま続けていくのか。
それとも——向き合うのか。
答えはまだ出なかった。 でも、ひとつだけわかったことがあった。
私はずっと、 気のせいであってほしいと思ってきた。
違和感を感じるたびに、 自分の感覚を疑ってきた。
でも——鼻は、嘘をつかない。
あの日から何度も嗅いだ、 知らない柔軟剤の匂い。
それは確かに、そこにあった。
私の感覚は、 正しかったのかもしれない。
そう認めた瞬間、 不思議と少しだけ、 楽になった気がした。
嗅覚は、 人間の感覚の中で最も本能に近いと 聞いたことがある。
理性より先に、体が気づく。
だから私たちは、 言葉より先に匂いで感じてしまう。
おかしいと。 知らない何かが入ってきたと。
もしあなたも、 洗濯物や枕やスーツから 知らない香りがしたことがあるなら。
その瞬間に感じた、 あの「ざわり」を——
否定しないでほしい。
