ETCカードの履歴に、知らない道が残っていた。
それを見つけたのは、確定申告の書類を整理していた、二月の寒い夜のことだった——。
別に、疑っていたわけじゃない。
夫のクレジットカードの明細を開いたのは、 医療費控除の計算に必要な 領収書を探していたからだ。
画面をスクロールしながら、 私は無心に数字を追っていた。
そのとき、目が止まった。
ETCの利用履歴。
見慣れた通勤ルートの料金所の名前が、 いくつか並んでいた。
でも——その中に一件だけ、 見知らぬ名前があった。
隣県の、インターチェンジ。
日付は、11月の土曜日。
あれ。
その週末、夫は「同僚とゴルフだ」と言って、 朝早く出かけていった。
ゴルフ場は、確か北の方向だったはず。 でもそのインターは、南だ。
気のせいかもしれない、と思った。
ゴルフの後に寄り道したのかも。 ルートが違っても、おかしくない。
でも一度気になると、 指が止まらなかった。
履歴をさかのぼっていくと—— もう一件、出てきた。
九月の日曜日。 また知らないインターの名前。
その日も、夫は外出していた。 何と言っていたか、もう覚えていない。 私が覚えていないくらい、 普通の週末だったはずなのに。
画面の光だけが、 冷たく部屋を照らしていた。
誰かに会いに行っていたのだろうか。 それとも、ふたりで出かけていたのだろうか。
考えたくない方向に、 思考が静かに滑っていく。
その夜、夫が帰ってきたとき、 私はいつも通り「おかえり」と言った。
夕飯を並べて、 向かいに座って、 他愛のない話をした。
でも頭の中では、 ずっとあの地名が回っていた。
聞けばいい。 「このインター、どこに行ったの?」って、ただそれだけ聞けばいい。
でも、聞けなかった。
もし嘘をつかれたら。 もし本当のことを言われたら。
どちらが怖いのか、 自分でもわからなかった。
食器を洗いながら、 私は泣きそうになるのを ずっとこらえていた。
蛇口の水音が、 やけに大きく聞こえた。
数日後、私はもう一度 あの明細を開いた。
今度は、冷静に。
日付、場所、金額。 ひとつひとつ、丁寧に見ていった。
ETCカードは嘘をつかない。 記憶も、言い訳も、感情もない。 ただ、事実だけが刻まれている。
私はずっと、何かを感じていたんだ。
スマホの扱いが変わったこと。 休日に妙に急いで出かけること。 帰宅後、どこかほっとしたような顔をすること。
ひとつひとつは小さすぎて、 気のせいで片付けてきた。
でも今、数字が並んだ画面を前にして、 私はようやく自分に言えた気がした。
気のせいじゃなかったんだ、と。
それは悲しみであり、 同時に、奇妙な静けさでもあった。
ETCカードの履歴には、 感情が載っていない。
でも私の胸には、 あの地名が、今でも棘のように刺さっている。
問い詰めたわけじゃない。 まだ、何も解決していない。
それでも—— 見て見ぬふりをやめた夜から、 私は少しだけ、自分に正直になれた気がする。
もしあなたも今、 小さな「数字」や「記録」に 胸がざわついているなら。
その感覚を、否定しないでほしい。
あなたの直感は、 あなたを守ろうとしている。
傷ついていい。 怒っていい。 まだ答えが出なくても、いい。
ただ—— 自分の気持ちだけは、 置き去りにしないでほしい。
