私の誕生日を、夫は忘れていた。
ケーキも、花も、メッセージもない。ただ、いつもと同じ夜があった——。
その日の朝、私は少しだけ 期待していた。
大げさなことは望んでいない。 ただ「おめでとう」の一言でいい。 それだけで十分だと思っていた。
夫はいつも通り、 スマホを見ながら朝食を食べて、行ってきますと玄関を出た。
振り返りもせずに。
あ、忘れてるんだ。
そう気づいたとき、 胸の中で何かがすとんと落ちた。
悲しいというより—— どこか、冷めていく感覚だった。
昼過ぎ、スマホを何度か確認した。
もしかしたらメッセージが来るかもしれない。 「ごめん、今日誕生日だよね」くらいの 一言が来るかもしれない。
でも画面は、静かなままだった。
友人からはいくつかおめでとうが届いた。 SNSの通知も鳴った。 夫からだけ——何もなかった。
夕方、私はケーキを買いに行った。
自分のために、自分で。
小さなショートケーキをひとつだけ選んで、 レジで「お祝いですか?」と聞かれたとき、 なんと答えたらいいか、一瞬わからなかった。
「はい」とだけ言って、店を出た。
夫が帰ってきたのは、夜の九時過ぎだった。
「遅くなった」と言いながら リビングに入ってきた夫の目が、 テーブルの上のケーキに止まった。
「……あ」
その一言が、すべてだった。
「ごめん、忘れてた」
笑いながら言った。 本当に、笑いながら。
怒鳴らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、「いいよ」と言って ケーキを切り分けた。
でも包丁を持つ手が、 微かに震えていた。
忘れてたんだ。 一年に一度しかない日を、この人は忘れていたんだ。
それ自体より—— 笑って言えることが、刺さった。
申し訳なさそうでもなく、 傷ついた様子もなく。
まるで、たいしたことではないように。
私の誕生日は、この人にとってたいしたことではないのかもしれない。
その考えが頭に浮かんだとき、 私は自分でも驚くほど冷静だった。
悲しみより先に、 確認をしていた。
いつからそうなったんだろう。 去年は、覚えていたっけ。 一昨年は——。
記憶をたぐるほど、 答えがぼやけていった。
その夜、夫が眠った後、 私はひとりでリビングに戻った。
食べかけのケーキが、 ラップをかけられて冷蔵庫に入っていた。
自分で買って、自分で切って、 自分でしまった誕生日のケーキ。
私はいつから、こういうことに慣れていたんだろう。
誕生日だけじゃない。 記念日も、ささやかなお願いも、 いつの間にかどうせと思うようになっていた。
期待しなければ、傷つかない。 求めなければ、失望しない。
そうやって自分を守ってきたことに、 その夜初めて気がついた。
これは、愛情の問題じゃないのかもしれない。
この人の頭の中に、 私がいないのかもしれない。
もしくは—— 別の誰かのことで、いっぱいなのかもしれない。
その考えが浮かんだとき、 私は否定できなかった。
最近の夫の変化が、 静かに、点と点でつながっていった。
